栗田コレクション鍋島名品選


鍋島は,日本の色絵磁器のなかで,最も格調の高い優れたものであり,陶磁工芸の何れの 面から見ても,他の追従を許さないものである。
それは市販を目的とするものではなく, 日本で初めて,磁器を作りあげた誇りをもつ鍋島藩主が,自家用品として,或は皇室,皇 族,将軍家に献上品とするため,また諸大名に贈答品とするために,大川内山(伊萬里市 大川内二本柳)に藩窯を設け,皿山代官直轄のもとに,藩庁の指示を受け,特別の配慮と 組織のもとに,藩内の名工を抜擢して制作したからである。

藩窯の職制は概ね,御細工場31人が,常時御細工場詰職人として雇用され,必要に応じ, 御用赤絵屋を筆頭とする,御用職御手伝職があったのである。
鍋島藩窯の創始時期につい ては,全く不明でこれを解明する文献資料はないが,世にいう格調高い色鍋島の制作は, 伝世品から判断して寛文(1661〜1672年)以降であると思われる。
然し鍋島宗藩の古文書 によれば,元禄年間には大川内山に藩窯が既に築かれていたことは,二代藩主鍋島光茂《治 下明暦3年(1657年)から元禄8年(1695年)まで》より皿山代官に与えた元禄6年(1693年) の手頭写しによって明らかである。

鍋島の優れた赤絵付が,当時どのような方法で作られたかは極めて大きな問題である。
こ れは皿山代官の記録によれば,赤絵町から赤絵顔料を大川内山に取り寄せ,赤絵町の画工 でなく藩窯の画工が描き,これを赤絵町に運び,その錦窯で焼成し,再び大川内山に持ち かえるという,複雑な形式がとられたのである。
ここに於いて特に注目すべきことは,伊 萬里の赤絵付は,すべて赤絵町で絵付焼成したものであり,藩窯に限ってこのような形式 がとられたことである。
このように藩窯に於いてすら,赤絵付の秘密を保持するため,赤 絵顔料の自由な使用と錦窯は許されなかったのである。
この点は,伊萬里及び鍋島の色絵 を理解する上に極めて重要なことである。従って,釜焼である柿右衛門家に赤絵付など許 されるはずはなく,有田のいたるところで焼かれ,赤絵町で絵付した乳白手の輸出伊萬里 を柿右衛門と呼ぶが如きは,全く言語道断である。

鍋島藩窯には多少の例外はあるが,そのほとんどは食器類を製作し,所謂茶陶を顧みなか ったところに大きな意義がある。
最も貴重な色鍋島の7寸,5寸の高台皿をはじめ,染付高 台皿の表面及び裏面に絵模様,図案模様を描いても,伊萬里と全く異なる非凡な様式美を 樹立し,異形の小器にいたるまで,その端正な形状と優雅にして重厚な作調は,まさに大 名道具であり,藩窯ならではの感を深くする。

このような模様,形状の特色は,献上品,贈答品としての格調を高からしめ,藩窯を,民 窯品としての伊萬里との区別を判然とするためのものであって,封建社会の特権意識を強 調したものである。
けだし色鍋島の名作は風格があり,香り高き泉品があり,線描は力と 伸びがあり,意志と思想がある。
或は独特の墨はじきの技法を駆使し,櫛手,七宝繋ぎの 高台は勿論,裏模様に至るまで寸分のごまかしもない,意匠とその配色の美しさにいたっ ては,陶芸の極致に見るものをして深い感動を与え無限の魅惑に誘いこむのである。